2013年08月19日

お話を伝えるくふう

01 真実の気持ちを伝えるむずかしさ

作家の海堂尊(かいどうたける)さんが、CS朝日ニュースターの「海堂ラボ」という番組で、自分は小説を書くとき、ある女性を密着して取材し、その人のことを描いたのだけれど、読者の女性から「女性は、こんなことを思わない。女性の心はもっと深いものなのだ」という意見をもらって、自分は実在する女性の事実をありのまま書いたのにと思ういっぽうで、伝える難しさを感じたとおっしゃっていたのを見たことがあります。

それは代理出産の話だったのですが、代理出産に実際にチャレンジした人は、こういうふうに思ったということを描いたら、代理出産をしていない女性から、女性だったらそんなふうに思うわけがないと意見をもらったということになります。

本人はそう感じているのに、他人がそれを否定するという話。

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02 おかしなことが本当に起こっていると伝えるむずかしさ

わたしがブラック企業につとめていたとき、ある友人に、職場でこんなことが起こっているということを話したら、その友人から、
「そんなことが、起こっているわけがない」
といわれ、びっくりしたことがあります。実際にひどいめに合っているわたしを目の前にして、そんなことは起こらない、と彼女は言ったのです。

どうも、まじめそうな事業内容の、業界の年鑑にも名前を連ねているような会社で、そんなおかしなことが起こるわけがない、というのが彼女の理屈のようでした。

実際に経験した人が目の前にいるけれど、その経験を信じることができないという話。

こういうことを見たり聞いたり、経験したりしますと、わたしは、ある人の存在を確信するのです。
すごい冒険をして、その話をして、信じてもらえなかった人たちの存在を。
そして、信じてもらえず、埋もれていった心おどる冒険の話が、今までどれほどあったことでしょう!

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03 物語の工夫

いっぽうで、埋もれないために、工夫した人もいます。例えば、日本の古典の説話集では、「これはたくさんの人が見ていたところで起こった話ですよ」という構成にしたり、「これはほんとうの話です。○×神社に、鬼の爪が残っていますから」と証拠を示す構成にしたりという工夫をしています。すると、読んだ人は「目撃した人がいるなら本当っぽい」「証拠があるなら本当っぽい」と信じてくれ、話が伝わっていくのです。

これが、物を語るという力のひとつなのかなあと思います。信じてもらえる構造に入れ込んでおはなしをするということ。

事実をありのままに描くだけでは、人は信じてくれない。話に入ってきてくれない。どうやら、本当っぽい、と人を引き込む語り方がだいじなようです。

でも、信じられないような話を聞いても、「それはうそだ」と思わずに、ちょっと足を止めて想像力をふくらませてみるということもだいじよね、と思います。くちをつぐんでしまう人をひとりでも減らすためにも。冒険の話を埋もれさせないためにも。

今日は、これでおしまい。


posted by ふう at 08:00 | Comment(0) | 研究してみた | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月09日

記憶できないものがある

夢を記録していたことがあります。朝起きて、どんな夢を見たかノートに書きつけるのです。
それをしてみて分かったことは、夢は記憶できないということでした。久しぶりにノートを見返してみると、こんな夢見たっけ? と思うことがしばしばでした。

朝起きたときは覚えていたけど、すぐに忘れてしまったという経験はだれでももっているでしょう。それは、なぜなんでしょう。わたしは、夢があまりにもめちゃくちゃだからではないかと思います。
・場面がいつの間にか変わっている
・違う時期に知り合った知人が同じ場所にいる
・空を飛ぶなど、ふだんできないことができる
・話の展開がおかしい
など夢のおかしなところを挙げればきりがありません。
あまりにもおかしいことは、記憶しづらい、ということを、わたしは他のことでも体験しています。

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わたしの夫は、寝入りばなと朝の起きたてのときに、おかしなことを口走るので、それが面白くて記録をとっていました。
おそらく、意識がはっきりしていない状態で頭の中が混乱しているので、おかしなことを口走るのです。こんな感じです。
2009年6月16日 ユニコーンきた
2009年7月25日 (布団にくるまって)クーヘン! クーヘン!
2010年2月11日 (強くゆすったら)あーやめて、混ざる混ざる

ところがあるとき、耳で聞き取るのに、記録するまでに忘れてしまうということが起きました。確かに耳で聞き取っているのに、記録することができない。ほんのちょっとなのに、こちらは意識がはっきりしているのに、忘れてしまうのです。えっと思うような内容だった、としか思い出せません。この経験から、知性で理解できないことは、人は簡単に忘れてしまうんじゃないのかな? ということを思いました。

外国の言葉は、耳で聞いているはずなのに、音のみで記憶するのが難しいことや、書いてある内容が難しいと思って読んだ本の内容を覚えていることは難しいことなんかもきっと同じでしょう。わたしたちは理解できたものしか記憶していないんじゃないかと思います。

とすると、子どものびっくりするような思いつきを親がちっとも覚えていられないとか、誰も覚えていられないギャグとか、日本中の人がそのニュースを見たはずなのに、あまりにおかしなことで全員の記憶から抜け落ちてしまう事件とか、そういうものがあるんじゃないかと思います。記憶できないから、誰も語れないのです。

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ちょっと話は変わります。「親から愛されなかった」と感じている人ってある一定数いると思うのですが、自分が親の立場になってみればそんなことはないのだと悟るとか聞きます。これも、子どもは知性がまだ発達していないから、親からたくさん愛情を受け取ったはずなのにそれが理解できなかったために、忘れてしまっているのじゃないのかなあ? と思います。

親からたくさん受け取った愛情。
記憶の中には残っていない。
でも、それはただ、忘れているだけ。
子どもに理解できる言葉や方法で
愛情を示してあげられたら、
ずっと覚えてくれるかな?

なんてことを、考えました。

今日は、これでおしまい。
posted by ふう at 10:25 | Comment(0) | 研究してみた | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月24日

「これに懲りずに」という言い方

「これに懲りずにまたお越しください」と大人は言います。
大人になって初めて使う言葉というのがありますが、「これに懲りずに…」という言い方は、かなり大人になってから使い始める言葉じゃないかと思います。子どもや大学生や新入社員は使いません。また、「広辞苑」にも載ってません。

わたしは、この言葉を使うのにとてもためらいを感じます。
なぜなら、この言葉を使うときに、こころの中で「懲りたでしょ? 懲りたでしょ?」と思っていると相手に思われるのではないかと心配だからです。

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だから、これはどう考えても相手が懲りたとしか思えない状況、お互い苦笑いしか出ないようなときにしか使いません。
「もう、これしか言葉が出ないです。ごめんなさい」というニュアンス。

でも、最近「こちらがよくないことをしたことは分かっています。でもまた来てほしいとも思っているんです」というくらいの意味で使われることが多くて、少々戸惑いを感じます。
そういう使い方されると、ちょっと図々しさが出るなあ、と思います。
相手に悪いことをしてしまったけど、また来てほしいっていう、その気持ちが図々しいのだと思います。
もう、相手に失礼をしてしまったと思ったら、謝るだけにしぼったほうが、すがすがしいかもしれません。

ネットで見ると、ビジネスマナーで相手に不快にさせない表現として推奨されていたり、手紙の書き方文例でも使われている場合もあります。が、言われた側が「なんか変じゃない?」と感じているという意見もちらほらあり、言う側と、言われた側で受け取り方に食い違いが生じやすい言葉のように感じました。

「この表現、変じゃない?」という質問に、「これは、ふつうにビジネスマナーで使われているから、正しい表現です」という答えをしている人がいるけど、お客が変って感じる言葉を使わないのがビジネスマナーじゃないのかな?

自分ではなるべく使わないようにしたい、でも、言われたら不快に感じる必要はない、っていうのがこの言葉とのつきあい方として正しいように思いました。

今日は、これでおしまい。
posted by ふう at 08:46 | Comment(0) | 研究してみた | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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